tokiwaの日々

子供の学習や発達に関する考察とアイデアのまとめ帳

子供の叱り方で悩む話2

こんにちは。本日もtokiwaです。

小1にあがった息子を叱らなくてはいけない機会がとみに増え、これまでにもこんな記事を書いてきました。

帰る方向を間違えてしまったこの日。

「今日は初めて学校から英会話に行ったけど、間違えずに集合できた?」

と帰宅した本人にカマをかけると

「うん!大丈夫だった」

と答えるのです。

「本当に?」と目をのぞき込んだら、こちらの目を見据えて「うん」と返してきました。

これはかなり深刻だな、私の育て方ってそんなに良くなかったのかな。と真っ暗な気持ちになりました。

(それで結局がっつり叱ることになったのですが、やり取りには特に予想外のリアクションがあったわけでもなく、また関係するテーマがあれば書きたいと思います)

 

子供を「叱る」ことについては、どこの親御さんもそうだと思いますが日ごろあれこれ思いを巡らすことが多く、現在の悩みや自分なりの整理を書いておきたいと思います。

親と子供の組み合わせ

子供のタイプがあるのかもしれない

親になってから「親の接し方が同じでも、それぞれの子供によって、響き方もリアクションも、生まれ持って違うものがあるんだな」ということを個人的には確信しています。

我が家よりも親御さんのしつけが厳しいおうちのお子さんが、いくら叱られても鋼のメンタルなのかすこぶる自由奔放だったり。

うちの子供たち2人を比べても、しょんぼりしたら半永久的にしょんぼりしている息子、5秒前のことは忘れてぐいぐい来る能天気(?)な娘と、同じ親から生まれて同じ屋根の下で育っているとは思えないほどの気質の違いを感じます。

繊細で慎重派(?)の息子

これも先日の記事で、息子が保育園時代から繊細で「少し接し方に注意が必要な子」だったことに部分的に触れました。

息子の繊細で慎重(というかこわがり)で一筋縄でいかないところは、小さいころの私自身にそっくりだなと思っています。私も小さい頃は、本当に些細なことで悩んだり判断がつかなくなったりして何時間もめそめそすることで日常生活がストップし、とうとう母が「なんでそんなことで泣くの」と泣いたことがありました。親になって振り返れば、きっと母は「この子普通じゃない」とか「自分の育て方の何がいけなかったの」と戸惑っていたのだと思います。

「子供の立場」だった自分の声に耳を傾ける

私自身は、息子の難しさが幼少期の自分と重なることもあり「そういう気質の子もいて、出発点が違うのは仕方ない」「プロセスで苦労はするが、努力と工夫によって普通の社会生活に合わせていくことができる」「それでも最悪合わせられないときの折り合いのつけ方にも工夫の余地がある」という実感があるため、(すべてがわが子にも当てはまるかはさておくとしても)気を付けることこそ多いですがこれで泣くほど悩むことはありません。

ところで、私は子供だったころ、日中は祖母の家に預けられていたのですが、夜に仕事から戻った母が、いつもここぞとばかりに厳しくて嫌だったことをよく覚えています。もちろん母も叱りたいばかりではなかったはずですが、子供と共に過ごせる短い時間の中で少しでも「よく子育てしたい」と願えばこそ、厳しく言わなければいけないことばかりでタイムオーバーになってしまっていたのだと思います。

価値観も独特のこだわりが強い人でした。おそらくこれも子供の幸せを思えばこそ「身の安全」「周囲からの評価」「友人関係」など、あらゆることで損得勘定をすることを子供に求める人でした。これは両親ともに共有していた価値観だと思います。

そのため、私自身の両親への反抗期はとても長いものでした。自分が親になったとき、子供を思っているにも関わらずそういう親子関係になるのは、とてもやりきれないと思っていました。

口を出しすぎる母の自覚

でも、いざ子育てに身を置くと「正さねばいけないことがあった時に言わなくていいのか?いま、私は厳しく言わないことで、子供に嫌われないことを優先しようとしていないか?」と自問自答する機会はあまりにも多いです。

結果的に、私は口うるさいタイプの母親になっていると思います。

勉強にこだわる理由

上にリンクを貼ったり書いてきたとおり、息子は保育園のころ、今に輪をかけて「扱いの難しい子」でした。保育園で新任の担任の先生にあたった年は、療育を勧められ、知能検査を受けたこともありました(結果的に大学病院で「療育への相談は不要」との判断を受けました。この辺はまたそのうち…)。

保育園は、子供たちをマスで効率的にマネジメントすることがある意味どうしても必要で、標準的ではないことで子供に負のレッテルが貼られることが避けられない面がありました。(実際先生方にお手数もかけてしまったと思います)

いっぽうで、私と夫は、本人の恐竜や古生物の知識、その吸収の仕方、記憶力を見ていると、伸びる部分もありそうな気がしていました。

本人の自信を守りたい、その一つの手段として活路が見いだせる、そもそもできて損なことがない、という気持ちで、勉強には意図して口うるさくしてきたと思っています。

しつけも言うしかなくなった

小学校に上がると、提出物のやりとり、持ち物の準備、宿題、タイムマネジメントなど、一気に「自分ですべきこと」が増えました。これもいわゆる「未知の世界」なので、今は閉じこもりこそしませんが、本人には大きな負荷がかかっていると思います。

できることがあれば助けたいところですが、その性質上、「自分で」しなければいけないものです。

結局、勉強のことも生活(しつけ)のことも口うるさく言うことになったな、と後から気づいた格好です。

こうして今や「なんでも口うるさい母」に仕上がった私なのでした。

親はポリシーに嘘をつけない

よく「なんでも先回りして言うと、自分で考える力が育たない」「自分で気が付くまで根気強く待ってあげれば、間違いに気が付いてそれを正す」といわれます。

私は自分自身の経験をもってこれに疑義を呈するものです。(もちろん、経験をもってこれに賛同する人もたくさんいると思います。)

「くどくど重ねられた小言が思い出されて、新しい場面でも注意の仕方を自分で考えた」「ランドセルの中がぐちゃぐちゃで宿題が破けたりもしたけど、面倒くさいから6年間汚いままだった」みたいにどちらの反証もいくらでもあるもので、それぞれの子供の気質が違うという前提に立てば、一概には言えないと思うのです。

結局、親にできるベストは、自分が正しいと思うポリシーを反映した子育てでしかないと思っています。

親子の信頼関係

口うるさく言う、というのが結局私たちのやり方になっていて、それは私や夫が「そうすべきでない」と思わなければ変えられない、変える必要もないと思っています。

叱らなければいけないときにはもう遅い?

ただ、「叱られるまで、子供が正しくできなかった」という事実については、それまでの私の接し方、背中での示し方が十分だったかどうか、いつも悩んでしまいます。

すべきことはあくまで「叱ること」「口うるさくすること」ではなくて、「できるようにすること」であり、親の怠慢や判断ミスで「叱る」「くどくど言う」一辺倒になった時には、信頼関係に響くのだろうなといつもどこかでヒヤヒヤしています。

 

「子供に幸せになってもらいたい」と考えるとき、親の自分の利益は度外視して、他人である子供のことだけを考えていると思います。

そうして、あくまで自分とは別の人である子供を育てていて、一人の人として子供を尊重しつつも、手渡していかなければいけない(本人がその大事さをわかっていなくても、無理にでも手渡さないといけない)ものがまだまだ山ほどあると感じます。

「無理にでも受け取ってもらうものの選別」「渡し方」には、これからも悩むと思いますが、せめて自分に嘘のないように考えて行動していきたいと思います。